市議団だより−豊田のまちから

【09.09.27】語りつぐ戦争の記憶(Ⅲ)

投稿 学徒動員・大阪空襲 65年前の思い
   (元善通寺市議会議員 堺 敏昭さん)

私は、終戦一年前の四月から一年間、学徒動員で大阪第二陸軍造兵馬廠香里製造所にいました。黄色火薬など爆薬をつくる兵器工場でした。特攻隊がもっていった一トン爆弾も作っていたと聞きました。年度後半には、材料が全くこなくなりました。空襲警報がなり、B29が飛来して高射砲攻撃をするのですが、全く届きませんでした。米軍の飛行機が墜落して喜び、日本の飛行機が淀川周辺に落ちていくときは、残念に思っていました。
 大阪空襲の時も香里製造所にいましたが、大阪造幣局のお札の燃えかすが飛んできました。家屋は全焼し廃墟となっていました。一部には鉄骨やコンクリートが残されていましたが、無差別攻撃で、弁天町から天保山まで見渡すことができました。こんな戦争は、絶対にしてはならない。と思いました。
 私は、徳島に帰り、日本で最初に無産者診療所の運動にかかわった大栗きよみ先生を知りました。同郷でもありました。
農民運動や青年運動のなかで、戦争中に侵略戦争に反対してたたかって政党、日本共産党があることを知りました。その党の一員として努力をつづけてきました。
 戦争中の体験が、私の平和運動の原点です。
 

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